
こんにちは、Horyです。
先日は松代大本営地下壕跡に行ってきました。
なぜ、第二次世界大戦の戦争遺構であるこの松代大本営地下壕跡に行ってきたか?というと、
・・・最近のウクライナ戦争のニュースの内容で、戦争に巻き込まれている市民の方々が避難している映像の一つに地下室や地下鉄に避難している映像があり、苦しい生活を余儀なく送っているのを見て、ふと「日本も過去に第二次世界大戦を戦った国家の一つなんだよな・・・。そして・・・空襲・・・。」と思う気持ちが持ち上がり、さらには「日本も第二次世界大戦末期はB29による爆撃に対処するため、防空壕や地下壕を掘って身を潜めて生活していた時期があったんだよな?」と・・・。そして「地下壕とはどういうものなのか?」・・・と急に興味が湧いて色々と調べていたのです。
・・・そうしたら「松代大本営地下壕跡」という遺跡がある事を発見したのです。・・・実に隣の県に長年住んでいながらこの巨大な遺跡である「松代大本営地下壕跡」を知ったのは本当につい先日の出来事でして、いても経ってもいられなくなり、早速どのような施設なのか?見学に行ったのでした。
この地下壕が建設された経緯としては、太平洋に面する海岸に近い東京にある国家の中枢機能が大日本帝国陸軍にしてみれば防衛機能が弱いと判断され、もし本土決戦になったら・・・と想定し太平洋戦争末期である1944年7月に長野県松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承されたのでした。

この「一大遷都」計画である「松代大本営地下壕」上図の鳥瞰図にもあるように、かなり大規模な開発計画であったことが想像できます。

実際にこの地下壕に入って公開されている部分を歩きましたが、結構歩いたと思っていても全体図からみるとほんの一部でしか歩いていなかった事がわかります。

何か所かごとにあった非常電話です。

トロッコの枕木跡です。掘削した後の残土をトロッコに積載して外部に搬出していたことを物語っています。
また、公開している通路以外の場所にはこのように金網等で立ち入りが出来ない様になっていました。確かに整備も出来ていなければ、何時崩れるとも思われないですからね・・・💦

まぁ、このように残土が残っているような状態ですからね、入って行ったら怪我をしてしまいますね。

このように削岩機ロッドが岩に刺さったまま残っていたり

この様に穿ったロッドの痕にダイナマイトを仕込んで発破し、崩した岩屑を運び出すのを人海戦術で行っていたという事実があった事を今回「松代大本営地下壕跡」を見学して初めて知った次第でした。
先にも書いた「人海戦術」という言葉通り、当時は現在の様な重機も無くまさに人の力を頼りに掘削されたのでした。
これだけの大規模な地下壕を掘削するのにどれだけの人数が動員され、どれだけの方達が犠牲になったのか?・・・。たぶん、突貫工事での掘削だったと思われます。調べてみたら1944年11月に掘削が始まり、1945年8月15日の終戦の日まで掘り続けられていたと記述がありました。
たった9ヶ月余りの工事でこれだけ掘削されているのです。動員された方々はさぞ大変な思いをされた事でしょう。労いの言葉を掛けると共に犠牲になった方にはご冥福をお祈りいたします。そして二度と戦争が起きない様に、そしてウクライナでの戦争が早く終結することを祈っております。

そういえば、朝鮮人犠牲者追悼碑がありました。建設作業には多くの朝鮮人の方も動員されていたと記述がありました。日本と言う異国で、このような作業に携わった多くの朝鮮人の方々の思惑は想像を絶する思いがあったと思われます。ご冥福をお祈りします。